『100年企業めざして心ひとつに』
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vol.3 父の姿、母の姿。

堤相談役のハガキコーナー

父辰男(1908年〜1980年)は、肺がんで72歳の生涯を閉じた。

大変な苦労人だったから、わが子に接する気持ちは、人一倍厳しかった。

口癖は「俺は6歳で父親(弥三)を亡くし、人に言えない苦労をした」「だから健康に気を使い長生きしたい」。

長女美智子、長男辰男、次男十郎、三男寛 四男袈裟男、次女静江の6人姉妹弟。

中国では警察官を拝命、そして終戦を迎える。

戦後は一転して水飲み百姓である。

当時の経済社会を考えると、苦労は凄まじいものを感じる。

昔話だが鮮やかな記憶が蘇る。

しつけが厳しく、食事の時よく頭を象牙の箸で叩かれた。

そんな父だが、定時制2年のとき佐賀市神野に下宿したいと父に許しを乞うた。

「お前は長男だ。家から通勤せよ」と許してくれない。

電験三種の資格に合格したいという思いは日々に募る。

ついに父と対峙することになった。

ある朝、父の面前で布団を運んだ。

じっと見ていた父が重い口を開いた。

「布団は俺が運んでやる。届けておく」。

ついに許しが出たのだ。

その日、布団を父が運んでくれた。

学習をさらに加速させ、その報いに応えようと励んだ。

懐かしい思い出の一つである。

二つ目の思い出は、肺がん治療末期に、シグマで公共工事2900万円を受注した。

病床に伏せた父に報告に行った。

大きく何度も頷いてくれたことが昨日のように思える。

 

 

母シナ(1912年〜2002年)は、小城町晴気出身。

実家は今もある。

優しく近所のへの気づかいがよく、明るくとても頑張り屋。

体が丈夫だったから90歳と長寿だった。

貧乏の子沢山は、当時の経済社会では普通だった。

7人の子を産んで育ててくれた。

中国からの引き揚げは、いま考えても一家の生死をかけたものであった。

とりわけ母は子供をかばい、食べ物を確保し、怪我をしないように気づかう。

貨車は急ごしらえの石炭運搬の貨車。

戦争に負けたの国民は混乱の中、煤煙を吸い顔は煤で黒くなる。

厳しい父に従い口答えや夫婦の争いを、わたしは知らない。

いま考えると優しさのなかにがまん強い厳しさがあった。

定時制に自宅から通学した時期、毎朝、弁当を2食作って持たせてくれたことだ。

弁当のおかずを工夫してくれ、遅く帰宅するわたしの道中を案じながら、心待ちしながらの顔が深く印象に残る。

父が肺がん治療のため入院した県立病院好生館では、ベットの下にもぐり寝て看病を続けていた姿が、今も思いだすと涙が止まらない。

わたしの性格は父の寡黙さと、母の世話好きが混ざっているが、母の性格がやや強いと思う。

もし、いま両親に生きて会うことができるなら、ぜひ会って当時の苦労に感謝したい気持ちが大きい。

 


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